2013年1月

ツアーファイナル

真摯なコっぽい記事を書くとそれはそれで恥ずかしいので、お客さんが終演後に撮ってくれた女子大のツアーファイナル衣装を挙げてみる。こういうことのほうが羞恥心がない私。

このウサギ耳、小学校の帽子みたいにやっぱゴムひも前処理だったんですけど...。
リアルバニーガール耳も持参したのだがアレは髪留めないと固定不能なのである。猫耳と違ってウサギ耳は重量がネックだ。風に煽られる比はT.M.RevolutionのBurnin'Xmasコスの羽根帽子の比ではない。(BXコスが強風の日に弱いのは帽子よりマントである。どうでもいいけど。あれは雨にも弱い。ダチョウ羽根の染料が落ちるのである。どうでもいいけど。) 耳をピンと立てて年中発情しているウサギさんは偉い。だらしなく耳も肉も垂らしている愛犬いちたろうくん(ミニチュアダックスフント、オス、15歳)にも見習って欲しい。

ウサギは人間でもないのに年中発情する希有な動物である。
だからバニーガールはエロティックだし、プレイボーイのシンボルはウサギなのだ。
(ただ...常に発情というのは、発情期がないということかもしれない。
 ...全瞬間がピークの人生はつまり平坦だろうし、全場面がクライマックスの映画つまんないだろう。)

ちょうど写真がぶれていたし、サイズ下げましたが...。
すみません、左右の愛しのわがマネージャーさん、写真あげて問題あれば言ってください。美形の方にモザイク処理するほうが失礼なので
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スクエア54会報12号発送遅延と次期のお知らせ

前号の会報11号で12号は2013年1月発送予定とお知らせしておりました。(今発見したのですがその部分誤植ありました、すみません。)しかし、現時点の見込みで2月前半製作進行予定の下旬までに発送というスケジュールです。いつもながら申し訳ありません。

次にお届けする会報は、スクエア54が当初目指した会報12号までの継続(つまり3年)というクールの最後の会報になる予定でした。しかし、2013年4月からもスクエア54の継続を決めたため、13号以降、4月以降の会員募集や活動体制などの見直しと吟味などを行うつもりです。あまり変わらないと思いますが、それでも会費をいただいて募集する限りは契約であり、きちんと文言化して1年の取り組みをお約束せねばなりません。

自室で座ってクリックするだけで無料の情報が溢れていて、探せばいくらでも著名な方の秀逸な文章がネット上で閲覧できる時代に、無名無芸の私が会費とチケット代をいただいて紙媒体の手作りの会報を郵送し、電子機器を一切使わない恐ろしく時代遅れなライブに足を運んでいただくことがどうなのか、いまだ分からずにいます。

4年目のスクエア54に会員さんが集まるのかという不安。
(...とりあえず3年!ということしか実はあまり考えていなかった。
 ...それは思った以上に困難で、しかし思った以上にあっと言う間でした。)
新規に募集する手だてをもたない故の失速やむなしの予感。
(...私の広報の怠慢です。しかし会報は個人同人誌状態、ライブも完全にソロ、会場確保はくじ運次第の現状で、どうも恥ずかしくて自分から自分をどんどん売り込むような真似ができません。「オレの歌めっちゃええねん、聞いてくれ!」とか「オレのライブ来て損はないよ!」とか「いい文章書くよ!」なんて私には言えません。自信がないのではなく、それはお客さんが決めることだからです。自分がダメだと思うモノは提供しない、そんなことは当たり前すぎて声高に主張することではないでしょう。)

4月から非常勤講師先をまたひとつ失ったため、ほとんど無職状態の地盤の寄る辺なさと不安定さのなかで、最低1年クールを存続させていく事。そこに対しての気持ちはすでに固まっています。

来月の今頃には会報と次期会員募集要項がアウトしているはずです。
スクエア54は会報を紙媒体で郵送するため、お客さまのご住所と本名を必要とします。会費納入も郵便局か銀行にわざわざお振込いただかねばなりません。現代という時代にはそのワンステップのハードルが高いことは承知ですが、そういう面はこれからも変わらないと思います。
決まり次第、このHPでもお知らせいたします。

4期めのスクエア54の会員募集は2013年2月末頃から4月末日を予定しています。

最低限今まで以下にはしませんし、なりません。どうぞよろしくお願い申し上げます。

スクエア54のこれから

スクエア54のライブは、小さな貸し会議室でお客さんが3人もいれば成立してしまうような小さなもの。
そのときどきで、お客さんはたくさんいらしたり数人だったり(私にはその波はまったく読めない。笑)。
自ら大々的に宣伝することも、チケット代を必要経費以上に徴収することも、【超拡散希望】ツイートも、私にはやっぱりできない。(リツィートしてくださったり、広報してくださったり、お友達を誘ってくださる方、ほんとうにありがたいです。)
15年以上やってきても、ライブをすることはどうしても慣れないし、そしてひどく恥ずかしい。

そして、大学の大教室で数百人を前にしている講義以上に緊張する。汗だくになる。
それをプレッシャーと呼ぶと潰されてしまいそうな気がするので、「緊張感」。
スクエア54に来てくださるお客さんはすべて、単位だの時間割の都合ではなく、自らの意志で自らの時間を割いて足を運んでくださるオトナの方々。それぞれに何かしらのプロに近い方々。

大学という大組織に守られたホールライブではなく、スクエア54はいわば私にはストリートで武者修行みたいなもの。
4年前に某大学をリストラされたとき強く思ったのは、とにかくライブができる場所が欲しい、ということだった。
じゃあ"路上に出て歌う"覚悟があるのか、と自問したとき、怠惰で臆病な私が意外にも「YES!」と自答したのだ。
自分が一番驚いた。
生きていくために他の仕事を探すことより、先見えなくてリスク大きくてもライブをする方を選ぶのか、と。
そんなにライブ好きなの?と。(答えはもちろんNOだ。好きだなんて言うには私には苦手すぎて過酷すぎて。)

「どんなことがあっても、何を言われても、どうトラブっても、絶対に最低3年は維持する」こと。
「他人任せにせず、自分の手を動かし、自分の目で確認し、自分の頭で判断し、自分個人で全責任を取る」こと。
その他いくつかを自分のなかで条件にして、数ヶ月の準備期間ののち、2010年の1月10日に正式に立ち上げた。
当初パソコンもネットも使わないことを考えていたけれど、結局HPを立ち上げ、やがてツイッターだのをはじめた。
会報の形も変えたし、メールマガジンも出した。
あれから3年、決してうまくいったとも、いっているとも、これからいくとも思えない。
迷って、泣いて、書いて、話して、読んで、考えて...、走り続けた3年だった。
でも、どうしてみても、それが悪いものだったとは思えないのだ。
はじめたとき、3年後つまり2013年1月10日の私がどんなものか、予測さえつかなかった。
怯えながら一歩踏み出したあのときの私に、今「悪くはないよ、ありがとう」と言える。


一昨日、2013年1月10日、朝から激しいアクシデントに見舞われながらも私は某大学で普通に講義をしていた。
8日のガーゴイル系の新曲ライブのリハに正月から追われていたし、他の大学のファイナル講義も重なっていた。
正直に告白するなら、スクエア54の3周年の記念日であることさえ完全に忘れていた。


何周年とかいう記念の呪縛が、19世紀末以降に顕著なものであることを昨日建築の文献を見ていて知る。
世紀の数だけ世紀末はあるのになぜ19世紀末を指すのか。
それは文化や思想や芸術や政治や宗教などがもはや、数値の区切りの訴求力に勝てなくなったからだと。
たしかに2000年という数値に人は踊ったし、誕生日を執拗に祝うし、創立だの生誕だのデビュー◯周年はもはやそれ自体で商品化されイベント化されていく。


・・・スクエア54は3年という区切りを最後に今後、数値以外のアイデンティティを追求します。

スクエア54は続けます。
3人以上お客さんがいればライブはやりますし(30人以上とかになるとそれはそれでスクエアっぽくないような...笑)、少なくとも数百人の登録者がいてくださる限り無料メルマガも書きますし、もしも今期継続してくださる方がいくばくかでもいらっしゃれば、あの会報を書いて刷って編んで折って綴じて、おひとりおひとりに郵送します。


私の人生は「取るものも取り敢えず」の連続で構築されています。
「とりあえず、つづける」。それが実際のところかもしれません。
それは、続けていけない理由が結局今の私に見当たらない、ということでもあります。
スクエア54は取るに足らないような個人のアナログの活動ですが、お客さんはじめたくさんの方々に支えられてきました。
だから「取るものも取り敢えず」、まだやっていけます。
それでも、なにかテイクしていただけるものをご用意できれば...と考えています。


明日は東京で、普通に、スクエア54のライブをします。それから、また、大阪で、それから...。


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...明日のライブのプログラムができました。


「愛がなくてはならない」

2013年があけました。

晒される前に晒しとく、のが正解かもしれんと思うので、年賀状パターン1を晒してみる。今年はパターン3まである。(出典「文句言われる前に文句言っとく!」by 清春さんライブMC)

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そろそろジブンダイスキ年賀状が顰蹙を買うことは分かっている。え、遅すぎると? 時間軸はひとそれぞれ。ボディに守られた乗用車の体感速度と生身むき出しのレーシングカートの体感速度の顕著な違いである。(私はレーシングカートのライセンス所持。)
両親からも「恥ずかしい、やめろ」と言われるが、私の年賀状から私が消えて干支の絵だの花だの空だのになったら、ある意味もうダメだコイツと思ってください(笑)。あと、宛名書きが印刷になった場合もとてつもない異変が起こったと思ってください。

もとい、ともあれ、2013があけました。
来月末まではギチギチに忙しいので私は正月気分を3月半ばに返上いたします。時間軸は人それぞれ、ハイ。

年末はバクチク@武道館にちょろっとお邪魔したが、感想は「オープニングの櫻井敦司の衣装、私似合いますよ。」に尽きるw。世界観も曲もビジュアルも確かに素敵なのだけれど、客席の私の疎外感は否めない。また『JUPITER』を聴ける、それはとても幸せなセットリストだけれど、でもあのときが凄かったからこそ上書きしたくない、というわがままもどこかにある。だいたい、櫻井はもう♪今夜も一人で眠...ったりしないだろう(笑)。
最近のニシカワタカノリのライブにも同様のことは感じるし、そして最近のコミケも同じ。たとえば今、シェイキンだのトゥインクル〜だのをニシカワに歌われても、それは違うのだ。それが単なるファンサービスや懐古を越えるのは、新曲をミリオンにするより難しいことなのだ。(清春さんは何度か、あの1997新宿ロフトを越える『Like A Angel』を小さなハコでその後演っている。ライブハウスでそういう瞬間に立ち会える幸せはもう奇跡に近い。ちなみに黒夢再結成@武道館のLike a~は私は評価しない。) だからこその「ライブ」なのである。そのときそこに立ち会うしかないのだ。
90年代ニシカワがライブ最後に歌ってた定番曲♪トゥインクル〜に「ああなるほど、これがT.M.Revolutionさんの"ジュピター"ですか」と言ったバクチクファンがかつていたが、そういうことである。

けっして劣化ではない、それは成長である。少なくとも私が今見ているバンドに関してはそう評価している。ニシカワもBTもそして、AKBも。

紅白出演の浜崎あゆみが劣化したというツイートがTLにあふれたので、後から録画を見た(便利な世の中だな、利用はするが愛せないわ)。彼女はよくやってると思う。少なくともテレビ見ながらクダ巻いて紅白に文句つけてる大衆に「劣化」だの「終わり」だの「下手」だの言われる筋合いはない程度には戦っている。でも、よくやってると思わせる時点でどこか敗北なんだと思う。そこが痛々しい。本来浜崎あゆみは痛々しさを纏って似合うコのはずだが、最近それをまったく着こなせてないのがセンスの劣化といえば劣化である。

ニシカワタカノリィの無言カウントダウンで年が明けた。今年もそんなんなのだろう。
ん?映像の状況からしてホワイトブレスを歌った後、カウントダウンしたんですよね? 
30日に東京から戻ってきたらテレビがつかなかった。地デジではないので切れたのかと思えば、そうでもなく。紅白を見るべく、書斎の本をかき分けて本体まで辿りついていじったりつついたりして、叩いたら映像は出たが、音声は出ない。今も復旧していないが、べつにテレビなくてもいいと思っているのが根本原因。

話は変わるのだが。

年末30日、雨の東京で『フランケンウィニー』を見た。成り行きである。
美術館が全部閉まっている東京なんて本当に退屈なのだ。本屋も文具屋もなぜか混雑しているし、致命的なことはお金がないのである。お金があれば私だってマッサージ行ったりおいしいもの食べたり買いものしたりする。東京は貧乏人にアミューズメントを提供してくれない場所である。
それでもけちらずに3Dバージョンを選択。こういうことに数百円を惜しむことの損失は計り知れない、と経験値が言う。映画館のホットドッグとコーラを諦めなさい、と(笑)。
...面白かった。ハマー映画『ドラキュラ』のクリストファー・リーが劇中劇にそのまま出て来たり、雌犬ペルセポネが『フランケンシュタインの花嫁』と同じ髪型だったり、日本人名のトシアキのペットが『ゴジラ』になったり、スラブ系の先生がヴィンセント・プライス!だったり、エドガーがもろに『ノートルダムのせむし男』だったり。スパーキーがフラン犬(!)になる描写はそのまま映画『フランケンシュタイン』だ。
最後までひっかかったのは、ニューオランダという地名と、あちこちにばらまかれるオランダのイメージ。でも謎は解けた。風車だ。あたりまえだ、フランケンシュタインなのだもの。

「科学にいいも悪いもない。だから使うひとに左右される。科学には頭が必要だがハートも必要だ」と先生は言い、そして学校を追われる。そう、「愛がなくてはならない」のだ。

最後のシーンは物議を醸すだろう。あのまま死ぬべきだったと思う。生き返ってはならないと思うのだ。それが正しいのだと確信する。しかし、それ以上に、なんでもいいからとにかく生きて欲しいと思う個人的な本音が先に立ってしまった。そして映画はそのとおりに...。
いいのか悪いのか。

ただ、わたしは、救われた。

「虚無の正論」でなく「ギリギリの本音」の方に人がかぶく時代に、芸術は成立しないのかもしれない。私はそれを危険だと思う。でも「愛がなくてはならない」とも思うのだ。


頭と心、生身と精神、どちらも殺さずに2013年もライブをします。


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