10歳になりました!

芸術学の学習会が10回目をむかえました。(...とひそかにリンクを貼るテストもしてみる。いつの間にか立派なHPを作っていただいていて、感謝します。)

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ワーイ!
いちごがハート型...。なんたるピクチュアレスク、絵に描いたようなスイーツさです。なんだかんだで、ケーキって人を笑顔にさせるしあわせな食べ物。

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ドラキュライメージらしい。夜中棺の上で撮ったらあまりにもはまりすぎたので(笑)あえて、朝の爽やかな(?)戦場、いや書斎で...。

私というより、ずっと関わってくださった方、お世話いただいた方のバースディであり、ご来場いただいたすべての皆様への花です。本当にありがとうございました。


気づけば10回。
ニーチェは言いました、"一度きりでは強度不足なのだ。だから反復するのだ。"
これからもライブは「反復」しますが、私はニーチェの言う「超人」ではないので「永劫回帰」するのは初心だけにして、差異を孕んでライブを重ねていきたいと思います。

「ありがとう」を生き方以外で返す術をわたしは持っていません。
「ありがとうございます」なんてそんな♪消えそうな言葉じゃ...。
なので、またライブをつくります。


映画『El hombre de al lado』備忘録

直訳は『隣の男』 邦題は『ル・コルビュジエの家』。


映画は強すぎて苦手だ。美術や書物のように自分の速度で鑑賞できないから。ライブやコンサートやダンスや舞台ならとにかくステージも生身の人間なのでその速度や加工はしれてる。しかし映画やテレビやアニメや映像は、急に5年後になったり100年前になったり、CG加工されたり...、アナログ人間にはキツい。
そもそも映画館とカラオケボックスは私がもっとも嫌う場所かもしれない。両方イヤな記憶がトラウマとなっている。
でも、こうしてたまに映画を見る。多くの場合はひとりだ。作品とサシでじっくり向き合いたいから。


『ル・コルビュジエの家』はアルゼンチン映画である。私と同世代の監督ふたりによる作品。はじめて見る監督である。基本的に原題を崩してほしくないが、この場合、邦題タイトルがなければスルーしただろうと思えば、この訳はありがたい。

舞台がコルジュジエの建築、ブエノスアイレスの州都ラプラタにあるクルチェット邸。ドキュメンタリー映画かと思いきや、主人公の住む家がクルチェット邸であり、その設計ゆえに起こる隣人トラブルのフィクション。

面白かった。

建築やデザイン好きにはたまらない要素に満ちている。それが押し付けがましくなく、さりげなくわかるひとにだけ開かれる心地よさ。6人しか客のいない映画館のシートに沈み込んで、私は微笑み、何度かは笑い声を必死で噛み殺す。いい時間だ。
ファサードのモデュロールだけでなく、住宅空間としてのコルビュジエ建築内部を実際に体感できる興奮。さらには、椅子のデザイン、室内のインテリア、前衛音楽への揶揄...。それだけならありがちの"高尚"なインテリ向けアート映画だが、「洗練されすぎている映画が苦手」と語る監督はそれを許さない。ステイタスへの皮肉や、家族内の不和、社会的なヒエラルキー、下世話なエロティシズム、隣人との人間模様など、極めて大衆的かつ俗物なドラマとしても秀逸にできている。

会話はもちろんスペイン語で進むが、イタリア語とよく似ていることを実感。
主人公レオナルドは椅子のデザインで一躍有名になり、妻子とコルビュジェの家に住み、メイドも雇っている。絵に描いたような成功者だ(電話でのやりとりに綺麗なドイツ語を使っていることから、外国語も堪能であり国際的に活躍していることが伺える)。反面、妻にはどやされ、娘には完全に無視され、法律をふりかざし、何もかも人のせいにし、裏から手を回したり、金にモノ言わせたり、女子学生に手を出そうとするようなスノッブな人間。
それに対して一人暮らしの隣人ビクトルは地元の下層階級の人間。腕にはタトゥ、粗野で頑固で破天荒、そして強面だが、人間的に極めて魅力的な人物。社会的なヒエラルキーと人間的な質は必ずしも比例しないようだ。

いくつか細かいシーンと台詞があとでじわじわくる。

ミース・ファン・デル・ローエの椅子デザインをパクってきたデザイン専攻学生(見た瞬間にモロにバルセロナチェアが思い浮かんだ。主人公がそれを指摘したのでにんまりした。)。「ローエから長い年月が経ってる。それをパクって、それより劣ったものしかできないのかね!」というようなことを主人公が言うシーン。辛辣でイヤな先生だが、今のデザイン環境において含蓄の深い指摘だ。

完全にシカトで常に耳にウォークマンのイヤホン、心を閉ざしているレオナルドの娘ローラ。唯一彼女が無邪気な笑みを見せたのは、窓越しに見た隣人ビクトルの指先の寸劇。汚い段ボール箱の中のステージ、ソファがバナナ、ラグはハム、ミカンにクラッカーのセット(笑)...、本当に矮小で猥雑でキュートだ。好みだ。私のやりたいライブはこっち系統。

ビクトルの叔父は知的障害がある。そのことに気づかず、叔父に対して一方的に暴言を吐いたレオナルドにビクトルは謝罪を求めにくる。自分は何を言われてもいいが叔父に暴言を吐く奴は絶対に許さない、と。そのとき、ビクトルが知的障害を「別の能力を持った人間」と形容するのだ。障害でなく、「別の能力」...。

プラセンテーロ・チェア(倉俣史朗のミス・ブランチよりこれが欲しい。見てて美しく幸せな椅子と欲しい椅子は違うのだ)、ゲバラの絵、ドット状の鏡越しの会話、ビクトル作のライフルと銃弾の真っ赤な女性器オブジェ、ゴミ箱に捨てられた花束、イノシシ肉のマリネのレシピ(なぜビクトルが銃を所持しているかがイノシシ狩りの伏線によって解決している)、エンドロールのイラストに至るまで、実にシュールでシャレている。

わずか100分ほどの映画、その中盤ですでに私はビクトルに恋をする。誰だってそうだろう。
だからこそあのエンドは、ない!
絶対に、あってはならないのだ!

映画を見てそのなかのフィクションのストーリーの結末に、こんなに本気で無邪気に憤る帰り道があるだろうか。


私はコルビュジエの家には住めない。住みたくない。この気持ちには既視感があった。かつてウィーンでヴィトゲンシュタイン邸を訪ねて内部を見せてもらったときだ。私はその家が大好きだし、本当に素敵だと思ったし、惜しみなく畏敬を払うけど、どうしてみても自分はそこに住みたいとは思えなかった。
"ル・コルビュジエの家"には、ひっきりなしに見物人が訪れる。ステイタスは満たされるかもしれないが、歴史的価値ある建築だけに自分で勝手にいじることもできない。この映画で、私が住みたいのはもちろんビクトルの家のほう。汚なそうで狭そうで暗い、窓もない、作るために勝手に壁を自分でぶちぬけるような、そんな処(笑)。

近代建築の巨匠コルジュジエの設計した家、クルチェット邸。もともとのオーナーであるクルチェット氏は外科医で、この邸宅は診療所と居住棟を兼ねている。現在の所有者はクルチェット氏の遺族だそうだが、世界遺産レベルの建築によく撮影許可が下りたなあと誰もが思うところだろう。ところが、意外にも監督は「許可を取るのは簡単だった」と述懐している。
 「他の国ではどうか分からないけど、アルゼンチンだからね」(公式HPより)

素敵な国じゃないか。素敵な映画じゃないか。

SQ54今後のライブ日程

速報です。

東京は、東京都現代美術館第二研修室で2013年1月13日に建築史系のライブをします。いつもと違ってたまには日曜日で、しかも午後だけの一本です。13時半から16時半の三時間ほど。

大阪は11月30日、12月21日、1月8日、2月1日です。
そのなかで、12月21日だけが中之島中央公会堂の会議室、あとは通常の大阪市立総合生涯学習センター会議室です。

まだ未定になっているセットリストなどは今月中旬のメルマガならびにHP更新でお知らせします。申し込みフォームなども15日頃設定予定です。

とりいそぎ、日程調整の結果のご連絡まで。会場抽選などがうまくいかずすみませぬ。どうぞお越し下さいませ。

スクエア54 田川拝

病みそこないのなんとか

 先月は忙しかった。
 新曲をまとめあぐね、旧曲の編集に行き詰まっているうちに体調も翳る。病院で熱を押さえ込み喉を調整。うがいができない体質の私はすぐにウィルスを吸い込んでしまう。注射でアレルギーを起こすのでワクチン接種もなかなかできない。身体も皮膚も弱い自分が、よくタトゥインクだのサージカルステンレスなどを受肉しているものだと思う。
 タトゥなんかしていると、そもそも病院に居るのが恥ずかしくて後ろめたい。そんなことしといて都合いいときだけ病院にくるのかよ、みたいな眼で見られても仕方ない。レントゲンなどのときにボディピアス(自力でははずせない)が面倒なのもネックだ。
 ...かかりつけの病院は私に慣れているのでありがたい。

 雨の東京から戻ってきた翌日、今度は出講先の大学でぎっくり腰を起こしてこの一週間ガタガタだった。休講は出す(私の休講は超レアだ)し、プログラム書きや資料作りだけでなく読書にも事欠く日々。
 そんな服とハイヒールでものすごい重量の荷物を持って走り回ることに無理がある、と言われればそのとおりだし、姿勢の悪さも頸椎がずれていることも、背骨が歪んでいることも知っている。大学から社会人初期にかけて毎日オケでマンドリン弾いていたクセで、座ったら足を組まずにいられない。書斎は和室で横座りだし、最悪の姿勢になる...。
 でもハイヒールは女のモビルスーツだし、本や譜面満載のドルチェ&ガッバーナの巨大鞄は武器で手放せない。オフの日や旅先では武装解除するし、そのメリハリでフリーターのアプレ人生のリズムは制御されている。

 ついてないなあと思うけれど、それも沸点をこえると楽しくなる。無責任に見ていて面白いコだなあと思うのだ。とことんツキにみはなされて、次から次に襲ってくる突発事態に翻弄されて、必死になってて。客観的に観察する分には面白い見世物ではないか。

 そんなこんなで、むりやり明日は行きつけの整体にいくのである...。
 私の身体状態に呆れながらも「無理をしないで」とか「よく休んで」とかいう類いのおざなりなおざりのことを言わずに、ただ黙々となんとかしてくれるので好きだ。

 「無理しないで」と心配されるのは素直に嬉しい。
 だが、あなたは無理せずに今まで生きてきたんですか。
無理せずに生きてこられた人生ももしかしたらあるのかもしれない。でも、そんな人生楽しいですか?
 私はそうは思わない。リスクはあっても、時に壊れても、無理を無理と思わない人間だけが遠くへ行けるとおもう。

 無理をしないことが無理であるような、そんな人生が、いい。

コスプレイヤーは二度死ぬ

「コスプレとは、自分を削っていくことによって自己表現に代える高度な身体技法である」という趣旨の原稿(『コスプレイヤーの憂鬱と愉楽』京都造形芸術大学紀要GENESIS 第8号2004年)を出してから8年も経った。私にしては珍しく、一日で一気に書き上げて一切の加筆訂正をしなかった文章である。最初から完成していた、ゆえにコスプレイヤーとしての自分はもう終わって興味のないものになったんだな、と自分でも思った。
書いた時点ですでに「引退」はしていたし、まあ身体技法実地報告のようなものだ。

コスプレをしてきた自分と、それに逆行するようにタトゥを入れた自分のマインドには自分で興味があった。

二次元キャラにも三次元芸能人にでも、自分以外のナニモノにでもなれる透明な身体としてのコスプレイヤーの身体。
対して、自分以外のものを受肉したがゆえに、もはや自分以外のナニモノにもなれないのがタトゥをほどこした肉体。

重くて、軽い。
私にはどちらも重くて、その重さと同じくらいのヘビーさで、軽いとも思う。

自分の好みとはまったく無関係の布を選び、自分のサイズとは全く違う寸法に裁断し、自分の身体に沿わない他者のラインにむかって縫製をする。自分の日常生活でつくはずのない筋肉を無理矢理のトレーニングとプロテインでつけて、自分の肉体のプロポーションを補正し、捏造し、メイクし、髪色も目の色も変え、他者に近づける一連の作業。それが何のディシプリンなのかよく分からないまま夢中になった。重い自分を脱ぐように、あるいは"取るに足らない自分にモビルスーツ"を履かせるように。

モデルとしての対象に似れば似るほど、どうしようもない自分は立ちはだかる。
"似ていることは非なることの証にすぎない"(蓮実重彦だっけか)のだ。
コスプレをするターゲットに漸近線を描いてどこまでも無限に近づいていくことはできる。だが、絶対的に、そのものになることはできないのだ。不可能なのだ。あたりまえのことだ。忌まわしいほど最後は自分なのだ。
(情報をネット上で探して、豊富な物資のなかから選択するだけで、出来合いの衣装をクリックで入手して、デジタル加工で画像を自在に調整して、テへペロしている今どきの〈コスプレイヤーもどき〉には分かるまい...)


※※※

さっき丁寧なお手紙をもらった。私が誰より愛したロリータが、ロリータとしての人生に終止符を打つという。
過去を脱衣して、新しく生まれ変わる人生に、心よりエールを...。
...「たまに着るロリィタ服なんてただのコスプレ、あってはならないこと」と彼女は云う。
ファッションとしてでなく生き方としてロリータ服を纏って徹頭徹尾それで生きて戦ってきたコがそれを脱ぐ時、
あるいは、子どもと大人のはざかいに自覚的に気づいて傷ついているコがそれでも新しい大人としての自分を築きあげる時。
(そういう季節なのか、何人か重なる。)
強くて綺麗なコというのは、切先も潔いほど尖っているから傷つくのだ。だが、その哀しみの深さは、そのコの奥行きの深さ。

私にはそういえば脱衣というものがない。
だって最初から「コスプレ」なのだもの。
弱さなのかだらしなさなのか狡さなのか。

そしてその代わりとしてのタトゥは宿命的に脱衣できないという、いわばアンビバレンツな「コスプレ」。

そこまでも、せねばならない、自分かな。(俳句か、笑)

ありとあらゆる他者を見つめて、それを繋いで、言葉として縫製して見せてる、今のライブも、ひとつのコスプレ。
ルールありきのプレイ。スタイルありきのフリーダム。
年々ヘヴィになるのは、「自分らしさ」なんていう贅肉のせい。

個性なんてものをとかく欲しがる若者がいるけれど、私にとって個性ほど邪魔なものはなくて。
邪魔だし、重いし、誤審するし、できるだけ排除したいけど、どうしても残存してしまうもの。

自分を殺し、やがて他者に殺されるまで、コスプレイヤーは二度生きる。

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ハッピーベアル

某大学の堺キャンパスに出講途中、インパクトの強い列車を目撃。
思考停止のブルーカラーに白いどうぶつの絵が大書してある。ありがちな広告文や企業名の類いが一切ないのが潔い。
ツイッターでつぶやいたところ、即座に情報がよせられた。泉北高速鉄道の「ハッピーベアル」号である。
私がまったく頓着しなかっただけで、よく知られた由緒ある車両のようだ。クマ(猫か犬かと最初思った)の部分のインパクトが強すぎて人間キャラ部分を見なかったが、確かに松本零士氏の絵だ。笑っているクマの目の上に運転手さんが来るのだが、わりと真面目な顔をされていて(あたりまえ)、ぽかんとする。

奇しくもその翌日、長野駅ではホンモノのクマが出現して大騒動となっていた。
ホンモノのクマは恐ろしいのに、電車に描かれたクマはもてはやされる、クマのプーさんは人を襲わない。
ホンモノのネズミは汚くて疎まれるのに、ミッキーマウスはアイドルである。
なんという表象イメージの楽園...、てなことをちょっと考える。

ついでに、公共の機関や都市の建築物がやたらと遊戯化することも私は憂う。
ゆるキャラが捏造(一生懸命考えた結果のキャラでなく、最初からいい加減さや不完全さを目論んでツッコミねらいウケねらいのあざといヤラセ感)されて濫立するのも食傷気味。パンダやポケモンが塗装された航空機に、なんだかえげつない絵と広告入りの電車、商業ビルのてっぺんの観覧車、萌え絵だらけの広告物、なんちゃって感満載のホテルやレストラン...。この国は子どもっぽいのか境界線が緩いのか。

まあ、ハッピーベアルのストラップをゲットしたのだけれど。
そして嬉々として速攻で携帯につけたのだけれど。
誰よりも私が脳天気で子どもっぽいのだけれど...w。

いいのだ。大人げなさを楽しめるのは大人の特権なのだ。

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ワーイ!って後先考えずにさっさと携帯につけてしまってから、携帯で撮影しようとするとこうなる...笑。

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お前の抜け毛で私のライブ用黒服が毛だらけになるのだよ...。

ちっちゃくて細っこくてぷるぷる震えていたいちたろう君もすっかり老犬になった。
北京ダックのようにツヤツヤテリテリしていた茶色の毛並みは真っ白になり、視力も聴力も衰えて。
でも、いつ何時であれ、全力で尻尾を振って飛びついてくるその無差別無制限無条件の愛は比類なく。
私が乞食でも大学教授でも、犯罪者でもノーベル賞受賞者でも、無一文でもセレブでも、このコには関係ないのだろう。
それは、確かに、神の愛に近いではないか。

ありがたいなあ、あったかいなあ、と思うのである。

会報11号

会員さま宛に昨日会報11号を大阪中央郵便局より発送しております。
一週間ほどしても未着の場合はご連絡ください。

いつもに増して突貫工事で、時間との戦いでした。
原稿を書いて、できれば最低48時間寝かせてから見返して調整、が当たり前なのですが、その猶予がなく、書いたそばからそのままコピーして貼り込み状態でした。なのでいつもにまして、さらに自分の素の部分がぼやけずに滲んでしまい、ひじょうに恥ずかしいものになっています。

「付録」は版型の大きさをミスったんじゃありません(汗)、テストした結果あれで二つ折りでいける計算だったのであります。そのほうが文章量増やせるし、断裁が少ない分作業も楽だなあ、と。でもインクが乗ってコピー屋の紙厚でいざ製本してしまうと簡単には折れなかったので真っ青になりました。すみませんすみません、ものすごい状態の封入でごめんなさい。

手書きのメッセージをおひとりおひとりに封入するつもりでしたが、レジュメの書き過ぎか荷物の持ち過ぎか疲弊かで、また右手が痺れてちょっと物が書きにくい状態でして、割愛しました。愛想ないことで恐縮です。

ウィーンのアイーダは実は19世紀からあるんだなあと製本終わってから知ったり、女々しくてウェットな文章だなあと後で後悔したり、色々ですがとにかく投函してしまいました。どうぞご内密に。

ツイッターで少し呟いたのですが、休日の夜の大阪中央郵便局。郵便窓口で重量だけ確認。スタンプ押しを断って「自分で切手を貼って投函しますから」と言って若い職員さんに怪訝な顔をされたあと、切手売り場に切手を吟味しにいきました。手書きの封筒には手貼りの切手が、という自己満足。
それに、今この時期の投函郵便物だからこそ、どうしても貼りたくなった切手がそこにありました(ピンクの80円切手のほう)。いつもよりは迷わずにシート買いし、10円切手も大量に買ってその場で貼り始めました。手指が痺れているせいもあって確かに貼りにくく、不器用な感じではあったと思います。
切手売り場のちょっと年配の職員さんが「後ろから拝見してたんですけど...、お手伝いさせていただきます」と。シートの場合、切手をどう切って(ん?笑)、どの向きでどうやって貼っていくのがいちばん早いか、を習いました。本当に鮮やかに速度アップです。切手もいろんな会社が作るようになって、やや紙厚も昔と比べて上がっているんだそうです。長く勤めているので...と当然のように言われましたが、プロだなあと思いました。自分が仕事で取り扱っているものについて熟知熟練していること。

どんどんメールが普及して、郵便物は多くが機械的なDMになっていくのかもしれませんが、これはこれで。

アウェイでのツアー

某大学での集中講義終了。お客さんには色々申し訳ないこともありつつ、とにかくありがとうございました。


単発なら結構場数を踏んでいるのだが、アウェイで三日間まるっとというのがはじめてだったツアー。
しかもいろいろ突発事態が重なって、帰国後ほとんどまともに睡眠も食事もとれていない状態。リハもいわずもがな、である。

学校柄なのか担当者柄なのか、なんともゆるい感じで、セトリも時間帯も時間配分もスタイルも服も自由っぽくて、結局どうしていいのかわからなくなる。自由といういちばんの不自由。好きなことを好きなように、というのが結構キツい。対象やモデルやフォーマットがあってそこにシンプルに集約していくタイプなんだと思う。
そもそも私の得意分野は美術批評とかコスプレ衣装制作とかせいぜい製本とかであって、決して自分で物を創作するとか服をデザインするとか本を書くとかいうことが生業ではない。

取るに足らない自分ごときで芸術家気取りの小さな夢を見るより、いわば完全他者の見果てぬ夢を職人的に形にすることに生き甲斐を感じる。ただ、その"他者"は自分で選ぶけど。すでに価値が定まって評価されてるものにあまり興味はない。時代や文化に埋もれている佳きものや誤解されている報われないものを、掘りあてて、見極めて、自由に泳がせて、あるべきところに繋ぎ、その美しい形を愛でること。

ともかく、◯◯について語ってくれ、と言われればそれである程度対応するし、それで"曲"を作ることもできるかもしれない。昔、「空間論」なる科目をやってくれ、と某専門学校の建築系学科で開講日3日前に言われたときは途方にくれたが(笑)。く、くうかんについてしゃべるんですか、と。く、くうかんでないものなんて、世の中にあるですか!?と。ま、演りました。唐突に言われた「靴について90分しゃべれ」は断った...そういや。今なら難しくないリクエストなんだけど。

自分に求められているものが分からない居心地の悪さを拭えずに三日間がじりじりと過ぎる。ひたすらメルベイユ(驚愕)なのか、それとも既存の知の再発見的なものか、何かに役立つようなノウハウなのか。
今語りたいもの語るべきものより、語れるものを優先しているにすぎないのではないか、という自責とか、もう少し詰めればよかったとかいう後悔や、お客さんに忍耐を強いたのではないかという不安や...。

もっとこう、感謝がまず立つライブでないとダメなのだ、申し訳なさでなく。

客席の得体が知れない恐怖は夏スクでも同じだし、スクエア54でも同じ。大学通学部や専門学校で未成年の学生だけ相手に話すよりはもちろん難易度高いけど、でもそれが本来だと思っている。見る目の肥えた恐い大人の客席が未熟な舞台を磨く。

ライブは恐いですね。ナマモノでマモノ。「最後まで一歩たりとも譲ってはいけない」もの。

ま、できれば打ち上げは最終日にゆっくりしたいものです(笑)。

帰国

もろもろ滞っております...。
9/14、休演出してしまって本当に申し訳ありません。

基本的に休演するほうがストレスになるので、できるだけ回避するのですが、予期せぬ諸事情で物理的に難しい状態となりました。それでも束の間渡墺できたこと...、本当にいい日々を過ごしました。
帰国したらどんな状態に陥るかはうすうす分かっていたのですが、でも、あの場所は私にとって特別なのであります。
「またここに来られるなら、どんなことでも耐えられる気がする。」
大げさでなく心底、そう思える旅先。それが地球上に確かにあることでずいぶん強くなれると思います。

とりあえず、今あるものを形にします。また紀行文もどきを書いて会報を出します。こちらもお待たせする事になって申し訳ありません。

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グラーツにある二重螺旋階段(15世紀)。支柱はなくとも石がバランスよく積み重なることで美しく鮮やかかつ堅牢な建築は成立する。うねり滴るような、螺旋。巡っては回転して分かれ、半周後にはまたくみあう。